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四つ葉の葵

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詩と心のお部屋です

大切な一瞬を握り締める
決して手放さないようにと、無情なる時間を握り締める
無邪気な微笑み、鼻をくすぐる匂い、恥じらいの色
あの時感じた確かな一秒が、無情に流されていく


電車から見る茜空
待ち合わせ場所に向かう一本道
二歩思い出して三歩忘れるように、刻(とき)が移ろい
愛しさに灼(や)かれ、妬(や)かれ、枯れてゆく


それでもこの心臓は
あの時と同じように、同じ鼓動を続け
時折、時を折るように握り潰して止めたくなる
停まってしまえば、これ以上失うことはないのだから


今宵も枕元で呟く君の名前は
忘れないでと、頬に、腕に、指に
瞼(まぶた)から涙を引きずり出しては
とめどない雫となって、止められず、止(とど)まらずに流れてゆく


時のように
けれど、自分の意思で
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# by aoi_samurai | 2011-06-11 00:08 | Poem
いつもの自分を脱ぎ捨て 裸になって
淫らに愛を貪れるなら それはきっと素敵な事
求めたくなる欲求と 求められる幸せ
甘えるようにねだり 溶けるように眠りについて
いっそこのまま時間が止まってしまえばと
心の何処かに居る本当の自分が 音も無く涙を零す

欲しいのは身体ではなく
露わにしてくれるその気持ち
貴方がいないと駄目なの・・・
君がいないと駄目なんだ・・・
逢えない時間が想いを募らせ
破裂する時 二人はひとつになる

絡ませる指の小さなぬくもり
見つめ合う瞳に灯る輝き
溜息のように熱い吐息を漏らし
激流のように過ぎ去るひと時を惜しんでは
磁石のように離れようとしない

何よりも辛いのは
逢えない時間を耐え忍ぶことではなく
別れの際に あなたに後ろ姿を見せること
見送りの視線を背中で浴び
振り返らずに踏み出すその一歩一歩が
私の胸を何よりもきつく締め上げる


それが好きだということ

逢いたい気持ちより 離れたくないその気持ちこそ

あなたが好きだという気持ち
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# by aoi_samurai | 2011-06-11 00:07 | Poem
「久しぶりにビリヤードをやったけど、楽しかったよ」
「俺もだ。あの時、もしラシャを傷つけたらどうしようかと思ったけどね」
夕食は隆史が紹介した店で食べることになった。
駅の長い地下街を5分ほどくねくねと歩いた先にあったのは、一軒の焼肉屋だった。
いかにも創業云十年と言いたそうな店構えをしているが、地下街にあるので実際はあまり古くない店なのかもしれない。看板には『焼肉レストランうしみつ時』と書かれており、どう見ても闘牛のようなイラストが描かれている。
メニューを紹介する立て看板には『牛カルビ480円』『豚トロ280円』と、非常にリーズナブルな値段が書かれていた。
店内に入るや否や、焼肉のタレの甘い匂いが鼻をくすぐり、それだけでお腹が鳴りそうなほどに食欲をかきたてられた。
僕と隆史はたまたま空いていた2名様用テーブルに案内され、まずは乾杯にと生中を2つ注文した。
「お疲れ様」
「誘ってくれてありがとな。乾杯!」
グラスの重い音が弾け、間もなく喉の奥に冷たい炭酸が流される。
たいした運動にもならなかったが、よく冷えたビールは格別の味だった。
その後すぐに隆史はウェイトレスを呼び、立て続けに注文をした。それもメニューを見ずに。
オイキムチ、ユッケ、大根とおろしポン酢のサラダから始まり、続いてカルビとロースを2人前ずつ、牛タンとミノを1人前、それとレバーを1人前、あとはライスを2つ注文した。
「あれ、隆史ってキュウリとか大根とか食べられたっけ?」
偏食家なのは大学時代から知っていたが、何故か彼はフッと鼻で笑い
「焼肉屋で食べるものに限っては別だな。肉ばかりだとすぐ腹いっぱいになるんだ、これが」
「調子の良い偏食だなぁ」
「そう言うなって」
先につまみのオイキムチがテーブルに置かれ、続いてサラダと牛タンが置かれた。
「ところで、さっき『大きなヤマ』があるとか言ってただろ? それって何なんだ?」
「あぁ、実は今度駅前のデパートで宝飾市が開催されるんだよ。うちの会社もその宝飾市に協賛することになってね」
「へぇ、宝石関係にまで手を伸ばすようになったのか。資金を持ってる会社は違うね」
「いやいや。先日のプレゼンが上司の目に止まったみたいで、僕の野心に出資してくれたといったところかな」
「お前の口から野心という言葉が出るとは、人間長い目で見ないと分からんものだ」
「こればかりはちょっと特別でね」
「特別?」
「叔父が彫金師で、そこに出店するんだ。小さい頃から随分お世話になったし、恩返しがしたくて」
隆史はグラスに残ったビールをグイッと飲み干し、
「やっぱり弘喜だな。そういう律儀なところが昔からそのままで安心したよ」
「ははっ、経理の子には冷たい目で見られてるけどね」
やがてお代わりのビールと、メインディッシュとなる肉が次々と並べられた。隆史は「今夜は俺が奉行として、美味い肉を焼かせてもらうよ」と、まずは牛タンから網の上に乗せた。
いかにも安値でペラペラとした薄べったい牛タンの1枚1枚を、実に手際よく、そして鮮やかに裏返していく。
「おっ、意外にも美味しい・・・」
レモン汁の小皿に乗せられた牛タンを食べて、僕は驚いた。少し歯ごたえが強いが、噛むほどに特有の甘みが滲み出る。
「だろう? 値段とクオリティ共に充分だ。問題といえば店名のネーミングセンスくらいか」
「確かに」
隆史はサラダを少し食べた程度で、あとはひたすら肉を口に運んでいる。やっぱり偏食家は偏食家なのだろう。いい意味で『相変わらず』だ。
僕らは互いに色々な事を話した。大学時代のナンパの失敗談や、雀荘で大負けした事や、成人式の二次会で『お持ち帰り』をしたら相手がまさかのマグロだったといった、まるで青春時代の階段を一段ずつ上から下へと降りてゆくような内容だった。
プレゼンから宝飾市の事までいささかスケジュールを詰め込みすぎていた僕にとって、それは何事にも代え難い癒しで、時の流れる速度も忘れて笑い合い、語り合った。
気付けば携帯電話の時刻は夜10時を示し、「そろそろ帰るか」と、僕たちは店を出た。


「こんなに楽しかったのは久しぶりだよ。ありがとう、隆史」
「こっちこそ気兼ねなく話せる関係でいられて感謝だ。仕事は大変だろうけど、無理するなよ」
「ああ」僕は頷いた。「それじゃ、またな」隆史は僕に背を向けながら右手を挙げ、小刻みに左右へと振り、駅の改札口へと小さく消えていった。

「今日も良い月だな」
僕は空を見上げ、淵崎と呑みに行ったあの晩の事を思い浮かべた。
こういう夜は、やはり徒歩で帰るに限る。
「それにしても、少し食べ過ぎたかな」
ベルトの穴をひとつ緩め、呑気に鼻歌を歌いながら僕は帰宅していった。
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# by aoi_samurai | 2011-05-09 05:28 | 小説・物語


「え?」
僕は思わず声をあげた。
3-5でリードを許したまま続いた9ゲーム目、的球の6番ボールが目の前の9番ボールの奥にある状態で、隆史は左足を台と垂直になるように折り曲げ、手球の真上からキューを構えた。
「隆史、ここでは・・・」
「さっき店員から許可貰ったから大丈夫だって。ラシャに当てたら弁償するって言ったしな」
マッセだ。
本来はラシャと平行にキューを構えて打つのだが、マッセはラシャと垂直に構えて打つ方法だ。
「弘喜、これがキャロムだよ」
隆史の表情が険しくなった。
えぐり出すように捻りを加えた手球は、正面の9番ボールを迂回するように反時計周りにラシャを走り、高い音と共に6番ボールへ当たった。ボールは手球の回転力を一部だけ引き受けたようにクルクルと横回転しながら、斜め奥にあるポケットへと吸い込まれていく。
「あれが入るのか!」
心臓が一際大きな鼓動をさせた。と、その直後。
「え? あ、ああっ・・・!」
信じられない光景が映った。
狙いは6番ボールではなかった。ポケットに入る6番ボールだけを見ていたのも束の間、ふと視線を変えた瞬間に9番ボールが動いているのが見えた。
手球に当たったのだ。
6番ボールに当たった手球が一度クッションにあたり、その反射先にある9番ボールに命中したのだ。
9番ボールまでもが異様な回転を帯びながら、ズルズルと中央のポケット目掛けてラシャの上を舐め、そのまま中央のポケットに入った。
「おお、すげぇ!見たかよ今の!」
マッセを放つ隆史を見ていた一組のカップルの彼氏が、歓喜の声を荒げた。
隣にいる彼女はきょとんとした顔で、興奮する彼氏を呆然と見ている。
「あんなすげぇマッセ初めて見たぜ!これはいい思い出になるな」
彼氏はケラケラと笑い、隆史に向かって拍手をした。
恥ずかしそうに隆史は一礼をし、それから僕に向かって「組んでくれ」と言った。
「いやいや、僕はもう降参だ。あんなのを見たら勝負する気になれないよ」
僕は財布から千円札1枚と500円玉を1枚取り出し、隆史に手渡した。


「仕事はどうなんだ?」
会計を済ませ、さて夕食でも食べに行こうとした時に、不意に隆史が話を切り出した。
「営業のことか?」
「お前のことだ、接客業と言っても差し支えなさそうだけどな」
思わず苦笑。
「これから間もなく大きな【ヤマ】があるんだ。それを成功させるのが目標かな」
「ヤマ? 大手と交渉でもしてるのか?」
「いや、規模でいえば零細だけどね。平たく言えば【名の知れた零細】とでもいうか・・・」
「つまり、スタート地点を目指している段階ってことか」
「スタート地点でサイコロを振ったところだね」
僕は点滅する横断歩道の信号を眺めていた。闇は徐々にその帳(とばり)を広げ、ゆっくりと世界が濃い青へと染まっていく。
「上手くいきそうなのか?」
「相手は叔父だからね。その時点の交渉は終わっているんだけど、その先が問題だね」
「運否天賦といったところか。そういう賭けは悪くないな」
僕と隆史は笑った。要するに『あとは神頼み』ということだ。
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# by aoi_samurai | 2011-05-07 02:48 | 小説・物語
今日は午前中から忙しさに溢れていた。
最初は叔父の家に訪れ、宝飾市の出店場所から出品する貴金属や宝石の総数、それから同業者である友人の人数や連絡先まで、揃えられるデータというデータを集める作業から始まった。
他にも輸送経路や手段、出店に向けて集められる人数など、思った以上に話す内容が多く、一段落した時には時刻は既に午後1時を回っていた。
「出店という言葉だけでは簡単そうに思えましたが、実際は前準備だけでもこんなに大変なんですね」
「なぁに、慣れればどうということはないよ」
出前で頼んだ寿司をつまみながら、結構大変な事を申し出たもんだと、若干後悔してしまった。
やっぱりな、と言わんばかりに叔父が笑う。
「有言実行というものがいかに尊いか分かっただろう?」
「そうですね。でも、もう賽は投げられてますから。頑張ります」
出前の割には美味しいサーモンの握りを堪能しながら、意気込みをアピールした。
「そういえば、弘喜」
「はい」
「お前、コレとか出来たのか?」
そう言い、叔父や右手の小指だけを突き立てた。
「またからかうんですか。もうずっとフリーなので、すっかり慣れちゃいましたよ」
「そろそろ嫁さんが欲しいとか思わんのか?」
「そうですね、風邪引いた時に看病してくれる人がいると助かりますね」
愛想笑いでごまかす。
「やはり同じ血を引いているだけあって、私もお前も変わり者だな」


午後は前々から約束していた、大学時代の友人と一緒にビリヤードを打ちに行くことになった。
駅から徒歩7分ほどの所に総合アミューズメント施設があり、そこではゲームセンターからボーリング、そしてビリヤードや卓球まで出来ると聞き、僕は駅前の改札口で待ち合わせをした。
午後3時5分。白と青のチェック柄のシャツとジーパンといった軽装で彼は来た。
「いやあ、遅刻してすまない」
「僕も今さっき来たところだよ。それにしても変わらないな、隆史は」
「そういうお前もだよ。2年も経てば変わると思ったけど、やっぱり2年程度じゃ駄目か」
「それじゃ僕が駄目な人間みたいな言われ方をされてるみたいじゃないか」
隆史は大袈裟に笑った。
「悪い、悪い。そういうつもりじゃないんだけどな」
隆史・・・真辺隆史は大学時代の同じ学部で知り合った友人で、政治経済学部というお堅い学部のせいか、よく一緒に社会情勢や景気についてディベートを重ねた事もあった。4年前に結婚したらしいが、その時僕は地方へと単身赴任をしていたので、結婚式に参加することは出来なかった。
「そういえば結婚してもう4年経つみたいだけど、順調なの?」
「そうだな、良くしてくれてると思う。俺みたいな偏食家の為に朝食も毎日和食を用意してくれてるし、まぁ自分で言うのもアレだけどさ、良く出来た嫁さんだよ」
「結婚か。僕も少し考えているんだけどね」
「相手は?」
「まだ」
僕達はアミューズメント施設に向かいながら話を続けた。
「相手もいないのに結婚を考えるとは、お前らしくないな」
「それ以上に隆史が結婚出来た時点で、隆史らしくないと思ったけどね」
「余計な一言も相変わらずだな」
「お互いにさ」

ビリヤード場は若者のカップルしか居ない、実に恨めしい場所となっていた。
8テーブルあるうちの4テーブルがカップルで埋められていたので、一番右奥にある静かなテーブルを選択することにした。
隆史がシートに名前を書いている間に、僕はキューを2本を選び、それをビリヤードテーブルの上に置いた。それから店の入口に備え付けてある自動販売機で缶コーヒーを2本買い、ボールとラックを持って来た隆史に1本手渡した。
「ナインボールでいいか?」
「勿論。1セットにつき500円でどう? ただしプレイ料金は割り勘で」
「いいね。それでいこう」
まずはバンキングで先行後攻を決める。バンキングとは手球と呼ばれる白い球を撞き、一度奥のクッションで跳ね返った後に、より手前のクッションとの距離が近い方が先行後攻を決められるというルールだ。
隆史はこまめにキューをチョークへと擦りつけ、「最初の一打が一番大事だからね」と、その闘志を明らかにした。
「それじゃ、いくよ」
同時にバンキングを開始する。互いの手玉がほぼ同じ速度でクッションに当たり、手前に戻っていく。だが、手前に戻ろうとする手球の速度は明らかに違いがあった。球の重心のやや下側を的確に撞いた隆史の方が勢いを止めず、手前のクッションから5ミリほどの位置でピタッと止まった。僕の方の手球は戻る途中で球速がみるみる衰え、半分ほど過ぎたところで一気に失速して止まってしまった。
「んじゃ、先行で」
「先行きが不安になるなぁ」
1から9までの数字が書かれた球をラックに組み、僕はテーブルの中央に並べた。
相変わらずチョークを入念に付ける隆史は「見てろ」と自信ありげに言い、
「ブレイク!」
全力のブレイクショットが1番ボール目掛けて、烈火の如く駆ける。
しまった、と僕は後悔した。ラックの組み方を緩めにしていたせいで、全てのボールが思った以上にラシャの上を走って行く。
中央に位置している9番ボールが5番ボール、8番ボールへと角度を変えながら衝突し、そのままポケットへとインしてしまった。
「まずは500円っと」
あっけなく1セットを取られてしまった。
久しぶりに見る隆史の目は、昔とは変わらない勝負師の目になっていた。
「うかうかしてられないな。僕も頑張らないと」
「勝負は全力でやるもんだからな、遊びといっても俺は真剣だぜ」
僕は缶コーヒーを一気飲みし、軽く両頬を叩いてから再びラックを組み始めた。
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# by aoi_samurai | 2011-03-09 03:45 | 小説・物語
「それにしても、本当に助かるよ」
『いえ、僕としても何か一つでいいから足跡(そくせき)を遺して置きたかったんです』
受話器の向こうから聞こえる甥の声は、普段よりも力強かった気がした。
果たしてそれがただの自信なのか、切羽詰まった上での逆転を目論む野望なのか、私には分からない。だが、若いうちに苦労をしておいて損などない。どんなミスをしたところで命まで取られる事はないのだから。
「弘喜、お前なら私の性格も良く分かるだろう。私は生計さえ立てられれば、それ以上の我儘は望まないが、どうやらお前は違うようだ」
少しの間を置いて、弘喜はやがて口を開いた。
『叔父さんはそうかもしれないでしょうが、僕としては非常に勿体無い事だと思うんです』
「勿体無い、とは?」
『叔父さんは立派な彫金師です。思わず手に取りたくなるような作品もいっぱいありました。けれど、良い作品を作る事だけが全てだと思っているのではないかと』
もう少しだけ弘喜の話を聞いてみよう。真意を知りたい。
「確かに良い作品を作る事が私の生き甲斐だと思うが・・・」
『でも本当にそれだけなんですか? 僕はそれだけでは足りないと思っています。沢山の人に見てもらい、選ばれること。宝飾市に出店される事そのものが気持ちの表れではないかと』
鋭い所を突かれた。私は一瞬言葉に詰まった。
「・・・だが、お前の会社は私の作品を知らない。これは一種の不公平と呼べるのではないかな?」
『それは心配要りません。会社は僕を信じ、僕は叔父さんの作品を信じています。会社の業績を伸ばす為の一手法ではありますが、僕が純粋に思っているのは【良い作品はもっと知られるべきだ】という事です』
「お前にそこまで褒めて貰えると、私も断り辛くなってしまうな」
紅茶の入ったカップをすすり、熱い吐息を零した。
『ありがとうございます、叔父さん。電話では細かい話は出来ませんので、明日の午前中に参ります』
「わかった。楽しみにしているよ」
『それでは、失礼します』
私は子機の電源ボタンを押し、ソファにもたれかかるように半身を預けた。
控え目な明るさを供給する小さなシャンデリアを見つめ、自身の衰えをすっかり受け容れてしまっている現状に抵抗するのも悪くないな、と思った。
「弘喜はすっかり大人になってしまったようだ。姉さんが羨ましいよ」
私は10分ほど、じっとシャンデリアを見つめていた。自分ではなく、他者によって人生の転機となり得る機会を得て、これが一体何度目の岐路になるだろうと考えた。後継ぎもなく、このままでは一代で終わってしまう事に不安を感じた事は少なくはなかった。
『ピンチこそチャンスなんですよ、叔父さん』
弘喜の声が不意に脳をよぎる。
あの子はいつだって前向きだった。きっと今でもそれは続いているものだと私は信じている。だが、先ほど話した弘喜の言葉は果たして本心なのだろうか?
すっかり冷めた紅茶をすすりながら、事の成り行きを見守ろうと私は思った。
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# by aoi_samurai | 2011-03-09 02:27 | 小説・物語
デスクに溜まった伝票の山を呆然と見つめていたけれど、こういう時こそ頑張らなきゃと、あたしは腕をまくるような素振りをしてから事務処理を始めた。
週末になれば念願のライブが見られる。全てはその時の為なんだ。
「珍しいわねぇ、翔子。あなたが真面目に仕事するだなんて」
あたしを冷やかすように、向かいのデスクに座る恵子がクスクスと笑っていた。眼鏡の奥に映る瞳が一層細く見える。
「そりゃヤル気にもなるって。だって先輩がチケット取ってくれたんだもん」
「何のチケット? クーポン?」
「違うってば! T-Woodsのライブチケットよ。じゃーん!」
そう言い、これ見よがしにチケットをヒラヒラと、恵子に向かってなびかせた。
眼鏡の向こうの瞳が大きく見開き、点滅しているかのようにパチパチと瞬かせている。
「嘘っ!? 普通手に入らないわよそんなの!」
「ふふん」
あたしは勝った。今の恵子の一言で勝敗はついたのだ。
「んで・・・どうやって柳瀬さんを垂らしこんだのよ、翔子?」
「ちょっと! 人聞きの悪い事を言わないでよ、んもぅ・・・」
「ゴメンゴメン」
小声でコソコソとやりとりが続く。
彼女は1年ほど前に入社した先輩ではあるけれど、偶然にも同じ短大出身だという事を知って、それをきっかけに今ではタメ口をきく関係になっている。
そして恵子には内緒にしているけど、あたしの方が一つ年上だったりする。
あたしが入社して3ヶ月も経たないうちに、彼女とは一緒に飲みに行ったり、ブティックへ買い物に出かけたり、先月は3連休を利用して一緒に温泉の旅にと出かけたりと、今ではなくてはならない相棒のような関係になっていた。
「でも良かったわね。ずっと行きたがってたみたいだし」
「うん。だから代わりに柳瀬センパイの仕事を手伝ってるの。さーて、頑張るぞ!」
「はいはい、どーぞ頑張って。あ、そうだ・・・今夜一緒に呑みにいかない?」
「んーと、ラジャー」
ライブは明後日だし、明日は用事という用事がないので、先輩の時と同じく二つ返事で承諾した。
あたしって結構軽いタイプなのかな、なんて思いながら、再び伝票整理の作業を再開した。


「おっそーい。15分もあたしを待たせて何してたのよー」
「ゴメンゴメン、さっき電話がかかっちゃって」
待たせてごめんというより、まぁまぁと言いたそうな顔をしながら、向かい席に恵子は座った。
今日は週末という事もあって、次から次へとお客さんが入ってくる。あと10分遅れて店に来たら、きっとカウンター席に案内されたかもしれない。
「電話で15分も彼氏とらぶらぶトークですか。いいなぁ」
「だからー、悪かったって。今日は私がご馳走するから、好きなの頼んで」
「えっ?いいの? んじゃ許してあげるー」
あたしってば、やっぱり単純だ。
「まずビールにしよっか。すいませーん」
恵子が手を挙げてホールを呼ぶと、生中を2つと薄切りトマトのチーズ乗せ、それから軟骨のから揚げとシュリンプサラダを立て続けに注文した。
「あたしの好物よく覚えてるね」
「だって翔子ったらこればっかり頼んでたじゃない。計算済みよ」
そう言い、恵子は笑いを堪えているような素振りを見せている。
うん・・・あたしってばやっぱり単純だと思う。


「それで? 翔子は柳瀬さんの事が好きなの?」
「へ?」
お酒も進んで来た午後8時過ぎ。まずは恵子と同居している彼氏の話から始まり、最近夜の生活がマンネリ化しすぎて面倒臭くて仕方無いと溜息混じりになってしまったので、話を切り替えようと、今度は私が日曜日に行くことになっているライブに登場するT-Woodsのメンバーの魅力などを語り始めた。でも恵子はあまり興味がなさそうなので、違う話にしようと思った矢先に、逆に恵子から柳瀬先輩の話を振られてしまった。
「だっていつも翔子って、柳瀬さんを見る時で瞳の輝きが違うというか・・・」
「そっ、そんな事はないっ!」
「何を動揺してるのよ、んー? 困ったら相談してもいいのよ?」
いい感じで酔っている恵子の『からみ酒』が始まったと、あたしは直感した。
「でも柳瀬さんってまだ若いし、顔も結構イイじゃない? そして優しいし」
「そ、そうだよね。確かにセンパイって優しくしてくれるから、つい甘えちゃうというか」
あたしもまんざらでもなさそうに答えた。
実際、柳瀬先輩は営業成績も常にトップだし、将来性もあるし、おまけに顔も性格も良いので、職場に居てくれて良かったと思う。
「でも好きと恋って違うじゃない? あたしとしては好きだけれど、こう・・・胸がドキドキするようなものじゃないのよ」
追加で頼んだコロッケを箸で切り分けながら、心境を述べる。
「けど、もし柳瀬さんからデートを誘われたら、翔子どうする?」
「デート?」
「例えば・・・そうね、遊園地とか」
「うーん」
痺れた右足を組み替えながら、実際にデートを誘われたらどうしようかと想像してみる。
あれだけ営業成績の良い先輩の事だから、きっと満足させてくれるに違いない、なんて思ってしまった。
「結構、イイかも」
そんなあたしの呟きに、恵子は「ほら来た」と指をパチンと鳴らし、
「どうせなら付き合っちゃいなさいな」
と、残り少なくなったサラダを全部小皿に乗せ、あたしの手元へと渡してきた。
「でも、センパイだって急に付き合ってくれるわけないと思うし。ほら、あたしってまだ会社に入って間もないし、急にそんな・・・」
「大丈夫、私が手伝ってあげるから! 大船に乗ったつもりでいなさいな!」
「え、えぇ?」
「とりあえずチケットのお礼ということで、食事に誘ったらどう? 柳瀬さんって交渉は上手そうだけど、女の子の誘いを簡単に断ったりしそうなタイプじゃないと思うし」
なんだかあたしよりも恵子の方が、テンションが高いみたいだ。
「でも恵子はどうしてあたしとセンパイをくっつけたがるの?」
「そうね・・・」
彼女は腕を組んでしばらく考え込んでから、
「その方が面白いじゃない」
と、満面の笑みであたしをからかっていたのであった。
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# by aoi_samurai | 2011-03-05 03:28 | 小説・物語
              3

「それではプレゼンテーションを始めます。今回私が着目したのは『オンライン・ショップ』--いわゆる通信販売についてです。まずは街頭でのアンケートの結果ですが・・・」
会議室の一番目立つ場所に僕は立ち、自身のノートパソコンと連結させた、天井側にあるテレビモニターに画像を映し、指示棒を片手に解説を始めた。
ソフトは従来通りに『PowerPoint』を使っている。プレゼンと言えばこれしかない。時間配分等のシミュレーションも何度か練習した事だし、あとは結果を報告して企画作りへと流れを運ぶだけだった。
「学生・社会人のリピーター率は高いのですが、実は主婦層でのリピーターが驚くほど低いという結果が分かりました。金銭管理能力が高い主婦層の購買意欲をどのように向上させれば良いか、3点ほど具体例を挙げてみました」
棒グラフ、円グラフに続いて3点の箇条書きの画面へと切り替わる。
「主婦といえば貴金属や宝石に目を奪われがちですが、最も購入しているものは食材です。更に優先度的には高級食材ではなく、ご当地の特産物に対して購入意欲が高いという事が分かりました。ですので今回は特産物を中心に考えて、範囲や流通経路、そして最後に価格についてといった流れでご報告申し上げます」
プレゼンをする際に重要なのは、画面の見た目やグラデーションなどの配色ではなく、いかに重要な部分を協調するかだ。入社して間もない子は大抵見栄えを良くしようとするが、それでは実際に何を伝えたいのかといった肝要な部分が見えてこない。PowerPointというソフト自体は開発チームに美術・芸術家が居ることもあって、画像に重点を置いているため、こういう誤解が生じやすい。詰まるところ、シンプルで良いと思う。
僕は範囲として更に4県ほど拡大し、石油価格高騰による流通経路の再検討や、中間マージンを徹底的に省くことの必要性から具体的な方法までを足早に説明した。そしてもう一つ付け加えるように、購入が控え目な貴金属や宝石類に対する価値観や視点をどのようにして変えれば良いか、主婦だけを対象にしたアンケート結果を報告した。
「実は私の叔父が彫金師をしておりまして、貴金属や宝石に関しては私自身のルートで開拓出来るのではないかと検討しております。来月、駅前のデパートの催事場で宝飾市が開催されますので、タイミングとしては申し分ないと思います。以上をもちまして、プレゼンを終了致します」
固く重々しい空気がゆっくりと雲散霧消されていくのが分かった。今回のプレゼンは先鋭的なものではなく、もう一度基礎から見直していこうといった、保守的な案に近い。そして実のところ一番の目的となるのは特産物ではなく、宝飾関係に対してだった。幼い頃から大変お世話になっている光太郎叔父さんに対して恩返しがしたかった。
企業としてはあまり改革的なものは好まない。それは投資出来る費用が極めて少ないことや、何年も低迷を続けている不況もその理由のひとつだ。企業もそれを十二分に分かっているからこそ、僕の案は一定以上の結果を得られた。
「柳瀬、ちょっといいか?」
デスクに戻った僕に、部長が声をかけた。「はい」と、部長の目を見ながら答える。
「どうせお前の事だから、メインディッシュを最後にもってきたってところだろう?」
「いえいえ」
頭を指先でポリポリと掻き、苦笑いをする。
「社としては休暇は与えられないが、有給は許可しよう。何日欲しい?」
「3日あれば充分ですが、現状としては3日も休むと営業が間に合わないので・・・」
「なら3日だな。大事なお得意様に関してはお前に頼む事になるが、そうでない所は淵崎に回すさ」
げえっ、と斜め前のデスクに座っている淵崎が露骨に嫌そうな顔をした。
「助かります。それでは3日でお願い致します」
大丈夫と言うように、僕は淵崎に向けてサインを送った。彼はしばらく戸惑ったが、やがて何を考えたのか、素直に納得した様子だった。

「もしもし、光太郎叔父さん?」
就業時間が過ぎ、社員が吐き出されるように入口から続々と帰宅を始める。
その中で一番先に飛び出したのは僕だった。
今日は金曜日なので、思い切って呑めるだろう。既に淵崎と呑む約束は取り付けてある。
しかし、呑みに行く前にやらなければならない事があった。
スーツの胸ポケットから携帯電話を取り出し、電話をかける。
『ああ、弘喜か。急にどうしたんだい』
「実はね・・・」
叔父にはこの事をどうしても先に伝えておきたかった。今回の宝飾市がいつもと事情が違うこと、有給が取れたので手伝いに行けること、僕は時間をかけながらゆっくりと説明をした。
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# by aoi_samurai | 2011-02-27 13:32 | 小説・物語

                  2

「昨日はありがとな。お陰でだいぶ落ち着いたよ」
淵崎が僕のデスクに缶コーヒーを置いた。「それは良かった。ありがとう」と右手でプルトップを開け、僕はコーヒーを一気に飲み干した。
別に礼を望んでいるわけではなかったが、礼を言われて喜ばない人なんていない。
笑顔と缶コーヒーは、僕の朝を実に清々しいものにしてくれた。
「部長には僕からも伝えておくよ。今日はちょっと戻るのが遅くなりそうだけど、お互いに気持ちよく仕事してほしいからね」
「お前だって職場では充分目立った存在なんだから、そこまでして貰わなくても俺は大丈夫だよ。周りの目につかないように、行動はほどほどにな」
僕の肩をポンと叩くと、淵崎はさっさと自分のデスクへと向かっていった。
「さてと・・・」
鞄からスケジュール帳を取り出し、今日の予定を再確認する。正午に取引先のお偉いさんと食事をしながら商談、午後にも2件ほど打ち合わせがある。時間があればもう1件といきたいところだが、今日は場所的に都合が悪そうだ。
だが明後日の金曜日にはプレゼンが控えている。多少無理してでもここは時間に余裕が欲しい。
「翔子ちゃん、時間ある?」
「え?どうかされました?」
端のデスクに座っている新人の子に声をかけた。彼女はきょとんとした顔でこちらを見ている。
「悪いけど、伝票を整理して向こうに渡してもらえないかな? 今週はどうにも忙しくてね」
「了解です。プレゼン、頑張ってくださいね」
翔子ちゃんは二つ返事で引き受けてくれた。やっぱり今日は良い流れだ。
「そういえば例のチケットだけど、1枚だけ取ることが出来たんだ。明日には手元に届くから、明後日に渡すね」
「えっ、本当ですか? わあ、すっごい嬉しい!」
みるみるうちに翔子ちゃんの表情に輝きが戻る。
「更にもう一つ良い情報なんだけど、席・・・前から7列目らしいよ?」
そんなに前なんですかと、彼女の顔が急接近する。僕は小刻みに頷き、半歩だけ後ろに下がった。「センパイ、本当にありがとうございます。何てお礼を言ったらいいか」
「いや、お礼を言いたいのはこちらなんでね。それじゃ伝票の方、宜しく頼むね」
翔子ちゃんは快諾すると、満面の笑みをこちらに向け、小さく手を振ってくれた。
「モテる男はやる事が違うねぇ」
扉を開けた時に後ろからぽつりと淵崎の呟きが零れた。


「ここがなかなかイケる所でね、君と話すならここにしようと前々から決めていたんだよ」
お得意様である竹内さんが紹介してくれたのは、駅前のデパートから歩いて1分もしない所にある1軒の小さなカレー屋さんだった。まるで喫茶店のような外観で、店に近づくほど建物の古さとカレーの香ばしい匂いがハッキリと伝わってきた。
「なかなか素敵な所ですね」
「ここのシェフは昔、五つ星のレストランでシェフをしていたインド人でね、腕前は勿論のこと、ナンを焼く釜も自宅にあったものを持ってきたというほど、心の底から料理人なんだよ」
「お話だけでもヨダレが出てきそうですよ」
僕と竹内さんは混雑になる12時よりも20分ほど早い時間に待ち合わせていた。この店でもランチタイムは非常に混雑するらしく、並びたくないという竹内さんの意向で、混雑前に商談を始めることになった。
店内には数人の客がいた。カウンター席が入口から見えるだけでも8席、あとは全て2名用のテーブル席が並んでいた。レジ前には世界遺産であるタージ・マハルの写真が額縁に収められ、耳をくすぐるようにシタールの音色が流れている。
僕らは店の一番奥のテーブル席を指定し、座ることにした。テーブルはカレーの汚れが目立たないように、黒に近い茶色の木材で作られている。間もなく店員が来ると、僕は竹内さんと全く同じ物を注文した。
「そういえば、ナンというのは本来、釜で焼いてるみたいだね。私はフライパンで焼くものだとずって思っていたんだがね」
「タンドリーチキンという名前はご存知かと思いますが、あれも同じくタンドールという石釜で焼かれてるものなんですよ」
「ほほう、それをタンドールというのか」
竹内さんが興味深そうに僕の話に耳を傾けている。これは大きなチャンスだと僕は思った。
「ナンもタンドールで焼くんですよ。小麦粉に牛乳やベーキングパウダーを加えて混ぜて発酵させたものを、タンドールの内側にペタペタと貼り付けながら焼いていくんです。ご飯もそうですが、やっぱり釜で焼いたものは良い香りがしますから、今から楽しみで仕方ないですよ」
僕は前々から覚えていた雑学を、ここぞとばかりに披露した。
「柳瀬くん、君が別の会社の人間で本当に残念だよ。雑学を幅広く知っている者は、常に余裕のある人物の証だと私は思っているからね。商談よりもまず、次に案内する店を考えておかなければならないかな」
久しぶりに仕事を忘れて笑ってしまった。竹内さんも気持ちよく笑いながら「でも、仕事は仕事だからね」と残念そうなジェスチャーをした。僕はまた笑ってしまった。
程なく、注文したものがテーブルに置かれた。大皿に乗ったナンは、見る者を呑み込むような大きさで圧倒し、別に置かれたトレイにはマトン・チキン・野菜のカレーがそれぞれ入っている器と、お子様ランチのように盛られたサフランライス、そしていかにも辛そうな、赤いタンドリーチキンが1本まるごと乗せられていた。
「インドの贅沢の3分の1がここに結集しているかのようですね」
「そいつは贅沢だ」と、竹内さんは再び笑いながら「どうぞ」と手の平をメニューに向けた。
「いただきます」
僕はまずナイフとフォークでタンドリーチキンを二、三切れほど切り分けてから、続いてナンを手に取り、勢い良く千切った後に、一番左に置かれているマトンカレーにつけてから頬張った。スパイスの香りが鼻腔をくすぐり、やがて喉の奥へと吹き抜けていった。
「これは美味しい! ナンの硬さと柔らかさのメリハリが効いていますし、辛さの後に続くほんの少しの甘さがまた絶妙ですね!」
「いいね、その笑顔。誘った甲斐があったというものだよ。それでは誠に残念だが、商談を進めようか」
「本当に残念ですが、進めましょう」

女性のお客様と商談をするなら是非此処にしよう。
僕は油のついた指をおしぼりで拭き取り、傍らに置いた鞄に手を伸ばした。
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# by aoi_samurai | 2011-02-26 03:03 | 小説・物語
炭素とは実に不思議なものだ。
偶然が重なることで、ダイアモンドになれるのだから。


「とにかくさ、弘喜聞いてくれよ。もう俺だって部長にはウンザリしてんだから」
いつもの駅前にある小洒落た居酒屋の座敷席で、2杯目のビールに口を付けようとしている最中に、同僚の淵崎が首元のネクタイを緩めながら、ずいっとこちらへと身を乗り出した。
「聞いてるって。お前の悩みなんかお見通しなんだから」
やれやれと小さく首を傾げてから、2杯目のビールを勢いよく飲み込む。
その相槌は肺の奥から搾り出した溜息として返ってきた。
「お前はいいよなぁ。部長に気に入られてるし、仕事だってやりやすいだろ? でも俺みたいに噛み付く番犬みたいなタイプはウザがられるのさ」
「だったら噛み付かなければいいだけの簡単な話だ、うん」
淵崎は自己主張がとりわけ強い。裏を返せばそれだけ融通が利かないという事になる。
だが決して強情というわけではなく、ただすぐに声や行動に出してしまうだけだった。そのため、彼の上司になる人はいつも眉間に皺を丁寧に寄せてくれる。
「俺にも感情ってモンがあるっての。感情を無くしてまで仕事をする気はないしさ。なぁ、分かるだろ?」
「だから一緒にこうして飲みに誘ったんじゃないか」
すっかり染みこんで溶けてしまいそうな揚げ出し豆腐を箸で切り分ける。
淵崎は不意に何かを思い出したように、
「昔は良かったよなぁ。ほら、まだアイドルが居た頃だよ」
視線が僕の斜め上を見上げている。
「アイドル?」
「佐伯さんだよ、忘れたのか? あの頃、誰が佐伯さんとデート出来るかって、皆して張り合ってたからな」
「佐伯さんか・・・」
3分の1ほど減ったビールを、今度はゆっくりと飲み下した。
「弘喜は佐伯さんにいつも可愛がられてたからな。ひょっとしたらもう『できて』たんだと思ったんだけど。でも結婚したのは違う人だったしさ、お前が一番ショックを受けてそうだったが、なんかそうでもなさそうだな」
僕は口の端を緩めた。
「いつもからかわれてただけだよ。早く伝票を渡してこいとか、小銭が無いからジュースおごってとか、なんかしょっちゅう言われてた感じだけどね。でも・・・」
でもショックだったよ、と言いだしそうな口を、僕は慌てて塞いだ。いくら酒の席だからといっても女々しくはなりたくなかった。今日は淵崎の愚痴を聞く場所として一席設けたわけだし、ここは彼の話を聞いていようと思った。
「でも、なんだ?」
「・・・・・・でも、後に入った子に比べたらずっとマシだったな、ってね」
「そうだな。アレは酷かったもんな。もう名前も覚えてねぇけど」
一杯作ってやるよと、僕は淵崎のグラスに氷と焼酎を、そしてウーロン茶を注いだ。彼は枝豆を食べた塩付きの手で「サンキュ」と受け取った。
佐伯さんか。すっかり忘れてたな。確か下の名前はミサだったっけ。
端正な顔立ちをした女性だった。とても感受性が強いらしく、喜怒哀楽を表情だけでハッキリさせていた人で、少し男勝りな一面があった。でもそれも彼女の魅力のひとつだった。
3年前に辞めると知った時に、僕は彼女が既に結婚していたという事実を知った。きっと環境が変わる事を恐れていたのかもしれない。そこがきっと彼女の女性らしさなのだろう。
「まぁアレも酷かったけどさ、次に入った子は逆に真面目すぎて面倒くさかったよなぁ」
「淵崎。昔の事はともかく、今日は部長の事で呑みに来たんだから、遠慮なく言ってくれよ」
「そうだったな。それでさ・・・・・・」

終電間際になって、僕らは解散した。
今夜は少しばかり空気が冷えている。
「いい酔いざましにでもなりそうだ」
誰に言うわけでもなく呟き、煌々と輝く満月を見ながら、僕は久しぶりに徒歩で帰ることにした。






※この物語は二次創作です。全ての著作権はkyoさんのものとし
 転載・引用・印刷の類を禁じます。
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# by aoi_samurai | 2011-02-24 02:04 | 小説・物語